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NGKストーリー

02 世界同一品質の実現を目指し、受け継がれるユニフォーミティー

製品のバラツキを抑え、顧客に満足してもらえる高品質の製品を提供するという「ユニフォーミティーの追求」。当社の品質管理の根幹をなす考えであり、現在まで変わりなく貫かれ、グローバルでの世界同一品質の実現へと受け継がれている。

ユニフォーミティーの追求の源流

1912(明治45)年7月22日、日本陶器の江副孫右衛門と山田吉次郎は福井県敦賀港を出港し、欧州に向かった。同業者に知られないよう秘密裏の出発だった。オーストリアのビクトリア製陶工場の実習で技術を習得することが目的だったのである。

さらに日本で使っている陶土の試験を依頼するため、二人はベルリンのゼーゲル研究所を訪ねた。8寸皿を含むディナーセットの製品化などに係わる問題の解決策を探っていたことに対して、同研究所のクラマーに指摘されたのが、「素地原料を純良なものにすること、粒子を細かくすること、土をねかすこと」の3点であった。日本陶器のそれまでの研究が素地原料の配合に集中しがちであったのに対し、クラマーが強調したのは素地原料の均一性の重要性であり、日本陶器に発想の転換を促した。これがのちに受け継がれていくことになる「ユニフォーミティーの追求」の源流となった。

江副孫右衛門(日本陶器時代)

素地原料の均一性から製品の均一性へ

1914(大正3)年になると特別高圧用ピンガイシの破損問題が続出した。原因究明のためにさまざまな試験や研究が行われた結果、ガイシ磁器とセメントの膨張差が原因と分かり、対策に一応のめどをつけた。しかし、翌年になっても国産・輸入品に関係なく破損事故が多発し、事態を重く見た日本電気協会が原因究明に乗り出した。

その最中の1915年7月、大倉和親と技師長の百木三郎は欧米視察の祭、米国オハイオ・ブラス社のガイシ工場を見学し、日本陶器との製造上の技術格差を目の当たりにして大きな衝撃を受けることになる。大倉は「ガイシは最下等の土で良し、電気試験さえ通れば良し、安くして利益があれば満足というこれまでの考えを改める必要がある」との通信文を日本に送った。ガイシ原料に陶磁器用ほど良質の土を使用しないなど、品質への配慮が足らなかったことを猛省し、これまでの製造方針の根本的な転換を強く主張するものだった。

これを受け、百木はガイシの製造に際し、品質向上に努力を払うよう指示するとともに製品の機械的強度に関してユニフォーミティーという考えを初めて打ち出したのである。

日本陶器の工場(昭和2年ころ)
百木三郎 明治37年日本陶器に入社しガイシの開発を担当した

経営方針としてのユニフォーミティーの追求

ユニフォーミティーの追求という考え方は当初、経営全般にまで浸透していたわけではなかった。節目となったのは日本陶器からガイシ部門が独立し、当社が設立されてからである。

当時、第一次世界大戦後の好景気の真っただ中で注文が殺到し、品質管理にまで配慮する余裕はなかった。しかし、戦後恐慌によって状況が一変。競争の激化により価格が低下したため、原価低減と品質改善により競争力を高める必要に迫られた。そうした中、大同電力の技師の立ち合いの下で国内外製品との比較試験を実施したところ、性能ではひけをとらないオハイオ・ブラス社製より均一性でははるかに劣ることが判明した。

これ以降、製品の均一性を確保することが経営方針の一環として位置付けられ、原料や素地をはじめとする製造工程全般にわたって体系的な改善が進められた。

日本陶器構内のピンガイシ置き場

そして世界同一品質の実現へ

戦後、当社はガイシ事業の拡大を図り、1960年代には世界一のガイシメーカーとなったが、その原動力の一つとなったのがユニフォーミティーの追求によって実現した安定した品質にあったことは言うまでもない。

当社では2000年代以降、持続的成長を実現するため、従来の年次改善とは一線を画した取り組みとして、コストやリードタイムの低減を通じて製品競争力のさらなる向上を図るという「ものづくり構造革新」を進化させながら、活動を続けてきた。特に自動車関連事業では「世界同一品質の実現」に向けて従来の発想を超えた最新技術の導入を図ったが、これはユニフォーミティーをグローバルレベルで追求することにほかならなかった。

素地原料から製品へ、そして経営方針へと深化してきたユニフォーミティーの追求は100年の時を経て、グローバル化の進展とともに自動車関連事業などにおける「世界同一品質の実現」として受け継がれることになった。

最先端の生産技術を海外の生産拠点に展開するマザープラントとしての機能をさらに高めた石川工場