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NGKストーリー

01 ガイシ国産化に込めた思いと森村各社の生い立ち

日本が培ってきた陶磁器の生産技術があれば、必ず国産化はできるはずだ。こうした思いが国産の特別高圧ガイシを生み出し、衛生陶器やスパークプラグを誕生させることになった。それらはすべて「営利ではなく国家への奉仕としてやらねばならぬ」「国家のためとは、独立自営の気概をもち事業の発展を図ること」「現状維持は退歩であり他より進んでいく」との信念にも裏打ちされていた。

一片のガイシから始まった国産化への歩み

日本陶器に提示されたのは小さなガイシ片に過ぎなかった。芝浦製作所(現東芝)の岸敬二郎が米国から持ち帰ったガイシの破片である。岸は「我が国が古来陶磁器の製造国として優れて居ながら、送電用碍子を外国から買ふなど奇怪千万である」と考え、特別高圧ガイシの国産化の開発パートナーを探っていたのだった。

岸が声をかけたのは日本陶器だったが、日本陶器が属す森村組を率いていた森村市左衛門は本業である陶磁器生産が軌道に乗らないことや、必要な電気技術者が皆無であることから初めは難色を示した。にもかかわらず最終的にガイシ製造に乗り出したのは、後に大倉和親が回想しているように「営利ではなく、奉仕としてやらねばならぬ」との信念からであった。

日本陶器と芝浦製作所で共同開発した特別高圧ガイシはやがて外国製を上回る性能を示し、需要が急増した。これを受けてガイシ部門の分離独立が決定され、1919(大正8)年5月5日に日本碍子が誕生した。

当社が誕生する発端となったのは「国産化」への強い思いと、「独立自営」の気概だった。こうした精神は当社だけでなく森村グループ各社を誕生させる原動力ともなった。

岸が持ち帰ったトーマス社製ガイシの破片
ガイシ生産を勧めた岸敬二郎
第1号丸窯の基礎に眠っていた陶板、創立ノ誓
創立当時の本社工場

衛生陶器とスパークプラグの開発に挑戦

日本陶器が創立されたころ、質の高い衛生陶器は輸入に頼らざるを得なかった。進取の気性にあふれた大倉孫兵衛・和親親子は衛生陶器の開発にも取り組み、1917年5月、東洋陶器を設立した。その後、日本初のFRP浴槽や温水洗浄機付き便座などを次々と発表し、衛生陶器の世界的なメーカーとなった。1970(昭和45)年の東陶機器を経て、2007(平成19)年にはTOTOに社名を変更した。

さらにスパークプラグの国産化があった。後に当社2代目社長となる江副孫右衛門が1920年6月、米国のプラグ工場を見学した際、「いずれ発展するであろう日本の自動車工業に国産のプラグを供給したい」との希望を抱いた。翌年にはプラグの開発に着手し、1931年、Nippon Gaishi の頭文字から成る「NGスパークプラグ」の名称で販売を開始。「NG」は「No Good」を連想させることから1934年にはNGKスパークプラグに改称した。1936年10月、日本碍子のプラグ部門は日本特殊陶業として独立。NGKスパークプラグは今日では世界トップシェアを誇るブランドへと成長した。

東洋陶器設立の母体となった製陶研究所(大正初期)
開発初期のスパークプラグ

森村グループを生み出した「一業一社主義」

海外貿易を目的として創業された森村組は、現在ではノリタケカンパニーリミテド、TOTO、日本ガイシ、日本特殊陶業、大倉陶園と共に森村グループを形成している。
このグループ化をもたらしたものは事業に関わる独特の考え方であった。新規事業を独立した組織と専任の人員で行わすことで意思決定の速さ、技術の進化と販売の拡大につなげ、さらに事業責任を明確にするという考え方である。のちに「一業一社主義」と称される森村系企業の気風はこの時に根ざした。
「国産化」への強い思いと「独立自営」の気概の下、セラミックスで世界最大の企業集団となった森村グループ。当社はその精神を底流として、1986年に企業理念を「よりよい社会環境に資する商品を提供し、新しい価値を創造する」と制定。2019(平成31)年に見直したNGKグループ理念では「社会に新しい価値を そして、幸せを」として受け継がれている。

森村グループの系譜

森村グループの系譜